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2023年11月2日配信の『週刊現代』にある記事が掲載されました。

自称元宝塚女優の女性が横浜で変死体として発見されたというもので、1961年3月12日号に続いて二度目の掲載となります。

亡くなった女性は「高橋えい」という名前で、宝塚では「七浦房子」という芸名で活動していたそうです。

なぜこのタイミングで再び掲載されたのかは謎ですが、高橋さんの死因に関する新たな事実が明らかになったためかもしれません。

今回は高橋えい(七浦房子)さんの死因や家族構成な どを紹介します。

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高橋えい(七浦房子)の死因は?宝塚に所属していたのは本当?

高橋さんの遺体が発見されたのは、1961年2月12日の早朝です。

神奈川県警のパトカーが巡回中に女の浮浪者の変死体を発見、検死の結果、女性の死因は凍死だと判定されました。

この時は大して気にも止められませんでしたが、「とうとう宝塚女優も昇天したのか」という一言から、遺体が発見された地域でたちまち話題になりました。

その後警察が女性の身元を調べたところ、高橋えいという名前で日ノ出町の川にある空船に無断で住んでいた事、「七浦房子」という芸名でタカラジェンヌとして活動していたらしい事が明らかになります。

聞き込みを続けるうちに普段から元宝塚女優だと言いふらし、「ヅカ婆さん」と呼ばれていた事も明らかになりました。

しかし調査を続けるうちに、高橋さんの素性についても不審な点が明らかになっていきます。

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高橋えい(七浦房子)

事件後に宝塚の事務所が警察から聞き込みを受けた際、高橋えい及び七浦房子という名前の人物は名簿になかったと答えています。

当然、高橋さんを知る団員も現れず、宝塚女優だった事もでまかせだったのではないかという疑問が生まれます。

警察ではヅカ婆さんは架空の人物だったという結論を出し、調書をまとめました。

高橋えい(七浦房子)の経歴を紹介!

高橋さんは明治43年に兵庫県神戸市に生まれ、成長後に横浜に渡ったとの事です。

兵庫県の生瀬(なまぜ)高等小学校を出た後、神戸市内の「井清寿」という菓子屋に勤めており、この頃から宝塚への憧れは強かったようです。

大正14年、16歳の時に「舞台に出る。有名になるまでは家に帰らない」と言って上京し、実家にも顔を見せなくなりました。

無謀な行為と言わざるを得ませんが、高橋さんは今で言う八頭身でスタイルも良かった事から、周囲の人も「あの子なら本当に舞台に立てるかもしれない」と納得したようです。

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高橋えい(七浦房子)に夫や子供はいる?家族構成を紹介!

結論から申し上げますと、高橋さんに夫や子供といった家族の存在は確認できませんでした。

上京後に結婚した可能性もありますが、その後の没落ぶりから察するにそんな余裕はなかった事が窺えます。

現在、高橋さんは無縁仏として共同墓地に埋葬されており、親戚も含めて親族は生き残っていないようです。

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最後に

高橋えい(七浦房子)さんの死因や家族構成などを紹介します。

70年以上も前の出来事ですが、このタイミングで再掲載されたのは高橋さんの死に関する新しい事実が明らかになったと考えられます。

今後の捜査次第ではより新しい情報が紹介されるでしょう。

高橋さんのご冥福を心よりお祈りいたします。